本当に拒否したくなることを見つけるまで様々なものを拒否し続けるという選択は拒否できるのか?

やってしまいました。

今この日記を書いている時刻は0:34

本当ならば最低でも23時には寝るつもりだったんです。

たまには8時間寝て、朝には気持ちよく起床しようとしたんです。

そして22:00ごろ、ゆっくりとベッドに横たわりスマホでラジオ放送でも聴きながら目を閉じ寝ようと試みて2時間半。

スマホ画面を見ずになるべく目を休め、質の良い睡眠を取ろうと試みて2時間半。

重い体を奮い起こし憂鬱な朝を迎える毎日から脱却しようと試みて2時間半。

ブランケットの足元には若干の汗がにじみ、ベッドの冷たいところに寝返りをうつこと百万、頭や腕の定位置がわからなくなったところでついにやってしまいました。

電気の紐を引っ張りこれまでの2時間半を無駄にする音を部屋中にひびかせ、ノートパソコンを開いて目の疲労をさらに上塗りしようと今に至るわけです。

何も後悔はありません。僕は無敵です。

 

...以上がこの学生ができる最低限の反抗行為らしい。まったく損をするのは自分だけではないのか。

 

研究員1:いや、この学生にとっては自分だけが損をしているという事実を周りに知らしめること自体が社会への反抗を意味しているのだと思う。そんな愚かな真似までして周りの大人の言うことに反抗したいのか、という。

 

研究員2:本人がそのつもりでも、結局その真意まではっきり伝わらなければただの非合理的で愚かな行為にすぎない。典型的な社会反抗に見られる特徴そのもの。彼がしていることは彼が一番しないでおきたかったことなはずだ。見事な転落劇。

 

...さまざまな要因が考えられが、結局は彼自身が納得がいっていないことへの反抗心が一番大きいだろう。

なぜ彼は2時間半目を閉じたのに眠れなかったのか、その答えを探し求める行為は天が与えた試練でもあるのだ。

彼は生き続けなければならない。

なぜならその天命を全うすることなく終わるという結末に、彼は初めてぼんやりしていない純粋な拒否反応を示しているからだ。